音楽

a flood of circleの「Diamond Rocks」って曲の歌詞が中島みゆき・吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」にパッと見似ている件

ふと見つけたa flood of circleというバンドの「Diamond Rocks」という曲の歌詞が、中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」に似てない・・・?と思い、勢いで記事を書いてみました。

問題の「Diamond Rocks/a flood of circle」(2013年)の歌詞がこちら。
「永遠の嘘をついてくれ/中島みゆき」(1996年)の歌詞がこちら。

「Diamond Rocks」と「永遠の嘘をついてくれ」が似てると思う点①歌詞が強い

中島みゆきの歌詞って、寄り添うような柔らかい歌詞もあるんですが、
文字に怒鳴られてるようなめちゃくちゃ強い歌詞もあるんですよね。
そんな雰囲気を「Diamond Rocks」に感じました。
命令形や「〜やってくれ」みたいな要求が結構多いですね。

「Diamond Rocks」と「永遠の嘘をついてくれ」が似てると思う点②フレーズが酷似

2番の3行目にこんなフレーズがあります。

まだ道の途中だと永久の嘘をついてくれ

出典:佐々木亮介『Diamond Rocks』

「永遠の嘘をついてくれ」にこんな歌詞があるんです。

今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

出典:中島みゆき『永遠の嘘をついてくれ』

「道」と「旅」、「永久」と「永遠」・・・微妙に違うのですが、めちゃくちゃ似てるフレーズですね。

この1行見て、勢いでこの記事書こうと思ったんです・・・。

結局「Diamond Rocks」と「永遠の嘘をついてくれ」は似てるのか?

冷静に全体を見ると、フレーズは結構似てると思うのですが、言ってる内容は若干違うのかな?
「サニーボーイ」に、ひたすら前をむいて駆け抜けろと語りかける「Diamond Rocks/a flood of circle」。
「君」に、夢のない男だと正体明かさずにずっとハッタリかまし続けろと語りかける「永遠の嘘をついてくれ/中島みゆき」。

中島みゆきファン歴40年!みたいな感じで、ツアーは全部行きました!っていうすごいファンが結構いるんです。
ツイッターのアイコンもみゆきさん、呟きもみゆきさんばっかりで、ツアーメンバーやら共演者にリプ送りまくったりしてるようなガチの人たち。
そういう人たちは、頭が完全にみゆきさん一色なので、これは「みゆきの曲と酷似だ!」と言うかもしれませんね。
しかもこのバンド、過去にみゆきさんの「ファイト!」をカバーしたりしているみたいなので、余計に「知ってて似せてる!」みたいないいががりはつきそうですね。

でも個人的には、一旦記事を書きつつ頭をニュートラルにした上での感想ですが、
部分的にフレーズが似ちゃっているものの、偶然の範囲であり、そこまで似てはないのかな〜と思います。

せっかくだから大好きな曲「永遠の嘘をついてくれ」について語る

「永遠の嘘をついてくれ」は、元々は中島みゆきが吉田拓郎に楽曲提供した曲だそうです。
もともと中島みゆきは吉田拓郎の大ファン。ファンというよりおっかけ的存在だったそうです。
確かに、曲を聴くと大いに影響を受けていそうなものがちらほら。
今中島みゆきの半分パートナー的存在のプロデューサー(1989年以降、全てのアルバムをプロデュースしている)である瀬尾一三は、
元は吉田拓郎をプロデュースしていた人。
どっかに名言されているわけではないけど、きっと拓郎繋がりでしょうね。

中島みゆきのスーパースターである吉田拓郎ですが、
なにやら「もう俺には中島みゆきの「ファイト!」のような曲は作れない」みたいなことを思い詰めた時期があるようで。
そんな時に、「遺書のような曲を」と中島みゆきに楽曲提供のオファーをしたらしいのです。
当時の心境なんて私には知る由もないですが・・・1960年代から尖った音楽活動をし続けた吉田拓郎も、1990年代にもなって自身も歳を取ってくると、なにかしら思うことがあったのでしょう。
引退・隠居を考えていたのかもしれません。

そんな吉田拓郎に中島みゆきが提供したのが、「永遠の嘘をついてくれ」

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

出典:中島みゆき『永遠の嘘をついてくれ』

みゆきさんも、なかなかスパルタな励ましをしますよね。
口を悪くすれば、「演じたなら最後まで演じ切れや、逃げんじゃねえぞ」って言ってるんですから、この歌詞。
優しく言ったとしても、「あんたはスターなんだから、最後までスターでいてよ」って言うことですよね。
人によってはプレッシャーに押しつぶされそうなエールを歌詞に載せて贈ったみゆきさんですが、
結局それから20年以上経った今でも、吉田拓郎は音楽界で精力的に活動しています。
2009年に体を壊してラストツアー中止とかいう心配なできごともありましたがね。

まとめ

この記事は、「パクリだ!」みたいな感じでアーティストの方を批判する目的で執筆したものではありません。
純粋に、「あー、似てる!」という強烈なファーストインパクトがあって、
「どの辺が似てるのかな〜」って分析記事を書いてみようと思ったら、いうほど似てなかったって結論の記事です。
しかし、これきっかけで自分の中の中島みゆき愛を再確認できたと思いますし、
吉田拓郎さんへの楽曲提供エピソードも思い出しつつアウトプットできたのは収穫でした。
いい曲なので、みなさんも「永遠の嘘をついてくれ」聴いてみてください。
「Diamond Rocks」も結構いい曲でした。
しかし、「Diamond Rocks」の歌詞に「Boy's Don't Cry」ってあってThe Cureの「Boys Don't Cry」って曲を思い出しました。
この曲もいい曲なので聴いてみてください
サムネイル

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音楽 2021/02/05morishi

【ネタバレ注意】映画「CODA あいのうた」感想〜音のない世界の住民との距離感〜

現在上映中のアメリカ映画「CODA あいのうた」の感想です。

注)以下、この記事では聴覚障がい者の方々について色々言及しますが、
理解のあまりない立場で色々話してしまうことになるため、誤解や偏見が入り混じってしまっている可能性があります。
気をつけて書いているつもりですが、不快に思われた方がいれば申し訳ありません。
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映画の概要:娘以外の3人が聾唖の家族。娘は音楽の夢を持ってしまう

映画の概要を簡単に説明します。
タイトルの「CODA(コーダ)」は、「Children of Deaf Adults=“耳の聴こえない両親に育てられた子ども”」のこと。
引用元:「コーダ あいのうた : 作品情報 - 映画.com」

父、母、兄、妹の4人家族が中心で映画は進みます。
主人公は、妹のルビー。
ルビー以外は、全員が聾唖(聴覚障がい者)です。
聴覚障がい者にも色々な段階があるらしく、
私が小学生の頃クラスメイトにいた聴覚障がいの友達は「ぼんやり聴こえる」とのことでしたが、
この家族については、後ろで怒鳴っても気づかないレベルに「何も聴こえない」ようです。
父・兄・ルビーの3人で毎朝午前3時から漁船に乗って漁に出るのが家族の仕事。
漁船が受信した無線を取るのも、海上保安官からの注意に応じるのも、港で卸業者とのやり取りや価格交渉をおこなうのも、全部健聴者であるルビーの仕事。
兄は、妹に依存せざるを得ない現状を不満に思っており、ヘソを曲げたり健聴者と同じように振る舞おうとしてうまく行かずにトラブルになったり、常にイラついています。
父や母はルビーに頼りきり。
医者の付き添いもさせ、「インキンタムシだから薬を塗って、しばらく夫婦のセックスは控えてください」みたいな医者の指示もなんの抵抗もなく通訳させます。
常に家族の面倒と漁、そして学生生活に疲れているルビーですが、「これが私の人生なんだ」と半ば納得・諦めのような感情を持っているようでした。

そんなある日、気になる男の子と同じ選択クラスに入りたいがために合唱クラスを選択したルビーですが、
それをキッカケに、担当教師から音楽の才能を見出され、自身も音楽の魅力に取り憑かれていきます。
教師から「音楽の大学へ進学すべきだ。学費も出るし、俺もサポートする」と口説かれ、その気になるルビーですが、
音楽がどんなものかわからない両親は彼女の夢を理解できないし、「残された私たちはどうするの」と、彼女の夢より現状維持を望んでしまいます。
兄はそんな状況に苛立ってばかり。

家族を憎んでしまい、衝突してしまうルビー。
一度ルビーが漁に出るのをボイコットして兄と父・監査員のみで漁にでた時、運悪く海上保安官の取り締まりに遭い、健聴者なしで船に乗ることを固く禁じられ、更に家族にとってルビーは必要不可欠な存在になってしまいます。

ルビーは夢を諦めて家族とこれからも生活や仕事を共にすることを受け入れますが、合唱発表会にてルビーの歌に感動する観客を見た家族の感情に変化が生まれます。

・・・というお話。
ざっくりほぼ全部話してしまいました。

映画の特徴①基本、下ネタが多い

壮大な感動映画のような印象を受けますが、あくまで軽いノリで映画は進んでいきます。
音が聴こえないからこそ自分たちの出す音にも無頓着な両親が、娘の隣の部屋ででかい音を出して愛し合ったり、
オナラをスカしっ屁にする発想がなく、でかい音を出してオナラをしたり、
ルビーの友達が、兄を気に入ったため手話でアプローチをしたがった際に、「ヘルペス持ち」という意味の手話を口説き手話として教えたり。
そんな、「あるある(?)」ネタがクスッと笑えます。

映画の特徴②聴覚障がい者の役は本当に聴覚障害者の俳優が演じる。故に物凄い

この映画の特徴ですが、聴覚障がい者の役は、全て聴覚障がい者の役者が演じています。
故に、手話がバリバリネイティブで、迷いがない。
なので、全然手話がわからない私たちにもスッと入ってきます。
これを見ると、日本の映画やドラマで見る手話ってたどたどしいなあ・・・と感じます。ほぼ健聴者が演じている場合が多いですから仕方ないですが・・・
この映画で、「手話に感情を載せる」という技を初めて見ました。
手話越しに溢れんばかりの感情が伝わってくるのです。
関連トピック: 妹に手話で「怒鳴る」兄の演技が物凄い

この映画の印象深いシーン

妹に手話で「怒鳴る」兄の演技が物凄い(この映画で一番凄かった)

家族のために夢を諦めてしまうルビーに、兄の怒りは爆発します。
兄はこのままじゃいけないと分かっており、同時に、自分ではどうしようもない現状に絶望しています。
このままルビーが妥協をして家族を優先してしまえば、今後更なる試練が訪れることも分かっています。それでもどうしようもない。
そんなやりきれない思いをルビーに対して兄がぶつけるシーンがあるのですが、
本当に、全身で怒り・悲しみ・絶望・その他膨大な感情を表現していて、本当にすごかったです。
大きな音を出すわけでもなく画面には静寂が流れているのですが、
絶叫されているような衝撃がありました。
手話で話しているのに、怒鳴られているような感覚。
手話で「怒鳴る」という新しい表現方法は初めてで、このシーンは一番印象に残りました。

合唱発表会を聴覚障がい者の視点で観るシーン。この瞬間、映画の主人公は娘→父親に代わる

娘の合唱発表会を家族で観覧するシーン。
最初の大勢の合唱シーンは、音が聴こえない家族の集中力は散々。
家族同士で手話で会話して、ボタンが外れかけて気になるだの、壇上から遠く唇も読めないから司会者が何を言っているのかわからないだの、ほぼ関心なしなのが伝わってきます。
しかし、次のシーンで一気に雰囲気が変わります。
ルビーとボーイフレンドのみでのデュエット曲目が始まった瞬間、壇上では歌声が響いているはずなのに、いきなり映画全体が無音になります。
そして、父親の視点になります。
聴覚障がい者の見る世界っていうのは、我々は映画を見る中で十分想像できていたはずですが、
壇上で歌っているはずなのに静寂が流れているというシーンで、思った以上に聴覚障がいのある人にとっての歌というものを思い知らされます。
口がぱくぱく動いているだけ。何も聴こえない。そりゃ、娘が音楽の夢を持っても理解するのは難しいよなあという感じでした。
しかし、集中できないが故に、父親の目は観客に向かいます。
うっとりと聞き惚れる客、思わず涙を流す客、スタンディングオベーションで感動を示す客・・・。娘の歌は聴こえない。でも、娘の歌声が人の心を動かしていることは、ハッキリと感じることができたのです。
このシーンから、ほぼルビー一人の視点で進行していた映画だったのに、父親の視点が加わります。
個人的な考察ですが、このシーンから主人公は父親になったのではないかと思います。
発表会後家に帰り、父親は娘に「俺のために歌ってくれ」とお願いします。
普通に歌っても歌声は届かないため、娘の顔に触れて大声で歌ってもらうことで、振動や表情から懸命に歌を感じようとする父親。
(映画最初の方のシーンで、若干伏線はありました。父親は車で爆音のラップソングを流すのが好き。ズンズン体に響くと、少し音楽を感じられるみたい)
懸命な双方の歩み寄りで娘の歌を感じることができた父親は、娘の夢を認めようと決心します。

家族に歌を「聴かせる」シーン。

家族の協力のもと、音楽大学の歌唱試験で審査員の前で歌うところまで漕ぎ着けたルビー。
娘の歌の夢を理解することにした家族は、試験の会場に潜入して娘の歌を見守ることにします。
会場の隅にいる家族の姿を見たルビーは、歌いながら手話で歌詞を表現して、家族に歌を「聴かせる」ことに成功します。

私はこの映画を見るまで想像力が欠如しており、
予告編でルビーが手話で歌詞を表現しているシーンを見てこう思っていました。
「手話で歌詞表現してどうすんの?字幕で歌詞映したり、詩を書き起こして筆談するのとなにが違うの?」
それは、生まれつき聴覚障がいを持った人が「どのように世界を見ているのか」全く理解していなかったからだと思います。

(こっから先も、単なる個人の考察で、的外れかもしれません。ご了承ください)

音を聴いたことがない人が想像する音楽って、我々が思う以上に難しいものなのかもしれません。
まず、音に高低があることすらわからないかもしれない
一人一人が発する声に個性があることすらわからないかもしれない。
声や音に、強弱や抑揚があることすらわからないかもしれない。
手をパンパンと叩いた時の音と、太鼓をドンと叩いた時の音の違いすら想像できないかもしれない。

そんな人々が考える音楽って、想像以上に掴めない謎の存在かもしれません。

単に歌詞を手話で表現するだけであれば、
ニュース番組のバリアフリー放送で、キャスターの横でおこなわれる手話とあまり変わりはないと思います。
しかし、ルビーの歌に沿った手話の動きは、メロディラインや抑揚や感情を表現することに成功しているように見えました。
生まれてからずっと、家族のために手話を自分の言葉として扱ってきたからこそできた表現だと思います。
兄がルビーに感情をぶつけた時に「手話で怒鳴る」という表現を私は感じましたが、
このシーンのルビーからは「手話で歌う」という表現を感じました。

振り返れば、小学生のころ、何かの取り組み(学習発表会かな?)で、合唱曲を手話つきで歌うということをしたことがあります。
教科書だかプリントだかに書いてある手の絵を手本に「この歌詞の時はこの手の動き」みたいな感じに練習して、本番までになんとか形になってはいたのですが、
この映画を見た後だと本当に形だけだったなあと実感しました。(仮に聴覚障がいの人がその出し物を見たときにどう感じるのかはわかりませんが)
まず歌詞を解釈して、自分の言葉で手話に変換して、そして受け手に向けて伝えるための表現を考えて、という過程を踏まないと、
本当の意味で、聴覚障がい者の人に歌を「聴かせる」ことは不可能だと個人的に思います。
小学生の私たちがやっていたことっていうのは、所詮「歌を説明する」ことに過ぎなかったんじゃないかなーと。
まあ、本当に手話をネイティブレベルに使える人にしかできない技だと思うので、小学生の出し物にそれを求めるのはお門違いだとは思いますが。

とにかく、家族に歌を「聴かせる」ことに成功したルビー。
大学に合格し、家族とも本当の意味で理解しあうことができたハッピーエンドでした。
ルビーが独り立ちしたあとの家族がどうなったのかはよくわかりませんが、うまくいきそうな雰囲気になっていたので、おそらく大丈夫でしょう。

まとめ

私は健聴者です。
この映画を語るにあたり、聴覚障がい者の方々がどのように世界を見ているのかをいろいろ考察する必要があり、
中には「偏見」と受け止められてしまったり、不快に思われてしまうような表現がないとも言えません。(気をつけて書いてはいます)
間違いや誤解を広めてしまうような記載があった場合、指摘していただけると幸いです。

映画の中盤で、母がルビーに対して本音を話すシーンがありました。
「あなたが生まれて、健聴者だと伝えられたとき、悲しかったの。理解し合えないと思ったから」
4人の中で唯一健聴者だったルビーはマイノリティーであり、他の3人からの疎外感を感じていましたが、
社会に目を向けるとルビーだけがマジョリティであるため、3人もルビーから逆に疎外感を感じていたのかもしれません。
この映画では、お互いがお互いの世界に対して歩み寄ることで、少しずつ理解し合うことができました。
家族や聴覚に限らず、これは世の中のさまざまなことに言えると思います。
現在はマイノリティを尊重する流れが加速しており、その分マジョリティからの反発も激しく、世の中は分断されつつあるように見えます。
お互いがお互いの立場を主張して理解を求めることもとても大事だと思います。でもそれは現実問題とても難しいです。
停滞した状況を解決するには、互いがこの映画のように理解するよう努力することがそれ以上に重要だと思います。
割と平凡な答えではありますが、忘れがちなことを教えてくれたこの映画にはとても感謝しています。

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映画 2022/03/21morishi